28.2.15

イーダ  25/02/2015


 
  ポーランド映画『イーダ(Ida)』がアカデミー賞外国語映画賞を受賞した。美しいカメラワークは、批評家から「フェルメールの絵画のようだ」と喩えられる。みごとな構図と光、音楽に織りなされたタペストリーのように完成度の高い映画なのだが、扱っている内容はずしりと重い。前回のポストで取り上げたPoklosieと同じく、ナチ占領下で、ポーランド人がユダヤ人を殺害し、土地や家を奪ったという話である。

 

映画は、とある女子修道院(ポーランドは、人口のほとんどがカトリック)で、誓願式を前にした18歳の修練者が、唯一の親類である叔母を訪ねてくるように、修道院長に命じられる場面から始まる。貞潔・清貧・従順を神に誓うのだから、ありそうな話だ。主人公は修道院で育てられた戦争孤児で、アンナと呼ばれていた。叔母には一度も会ったことがない。彼女は、叔母ヴァンダから、自分がイーダ・リーベンシュタインというユダヤ人であることを知らされる。二人はイーダの両親と、ヴァンダの一人息子の最期の模様を訊ねる、旅に出る。

 

設定は1962年。登場人物の心には、まだ戦争の傷が疼いていた。レジスタンスの戦士として戦火を生き延びた叔母は、戦後、共産主義国家の検察官となって、反体制派の人たちを次々に検挙し、「赤のヴァンダ」と恐れられた。スターリン主義者に死刑台に送られた人たちの中には、無実だった人も多いと聞く。ここで「ユダヤ人=アカ」というステレオタイプが再生産されていることは、ポーランド史に疎い私のような観客には、ちょっと分かりにくい。

 
自分の出自を知ったイーダが、改めてカトリックの修道女になる選択をする結末も、また、俄かには信じがたい。しかし、民族や宗教、政治的立場が複雑に入り組んだ過去をしっかりと見つめて、現代に照射しようとする姿勢には共感を覚える。侵略の被害者であったポーランドと、侵略を自ら推し進めていった日本を、単純に比較することはできないだろう。しかし、過去を忘却から掘り起こす作業は、ナショナルな言説の限界を超えて、多様性を尊重する、トランスナショナルな社会の構築に、欠かすことができない。

20.2.15


20.12.2014

 

Poklosie


 

 

Poklosieというポーランド映画(Władysław Pasikowski監督、2012年)を観た。ポーランド語の原題は『収穫』の意味らしい(注1)、英語のタイトルはAftermathになっている。事件の余波、顛末といった意味だ。フィクションだが、1941年にポーランド北東部にあるイエドヴァブネ(Jedwabne)という町で実際に起きたユダヤ人虐殺を念頭に作られている。ポーランドには第二次世界大戦前、総人口の約1割にあたる300万人以上のユダヤ人が暮らしていたが、ほとんどがヒトラーの絶滅政策(最終解決)の犠牲となった。ユダヤ人以外のポーランド人も多くがナチの侵攻や占領により犠牲になっている。その数も200万人とか300万人とか、ユダヤ人死者数に匹敵する(注2)。

 

しかし、イエドヴァブネではポーランド人がユダヤ人を殺した。事件は長い間、ナチの犯罪として記憶されていたが、2001年にポーランド系アメリカ人の歴史家ヤン・グロスが、隣人であったポーランド人による犯罪だと発表して議論になった(『隣人たち』 (Neighbours, Penguin Books, 2002 )。ポーランド政府は調査の結果、ポーランド人が加害者であったことを認め、大統領が謝罪した。ユダヤ人は鉈やこん棒で惨殺され、残った人たちは納屋に集められて、建物ごと火にかけられたという。

 

舞台を架空の村に移して制作された映画Poklosieは、虐殺事件を究明しようとする主人公の兄弟と、過去を葬り去ろうとする村人たちの争いに焦点を当てている。その中で、村人たちが今日、耕している農地が、虐殺されたユダヤ人たちから収奪したものであること、主人公の亡き父も加害に加わっていたことなどが、明らかになっていく。問題にされているのは、被害者であるユダヤ人たちが不在のまま、全てを忘却のかなたに追いやろうとする村人たちの頑なな態度である。虐殺の加害者、あるいは傍観者であった親世代の責任を問うことは、子としての感情からは難しいだろう。しかし、何事も起こらなかったこととして、今を平穏に生きることは、人間として倫理的選択だろうか。

 

ポーランドを、戦争加害国である日本と比較することは憚られる。しかし昨今の日本で、戦争被害が強調されることは多くても、加害については口をつぐんで、自民族中心の集合的記憶が形成されている点は、この映画の問題提起と重なり合う。記憶を選択的に操作して、自分たちに都合の悪いことを歴史から抹殺する社会は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』の中だけに存在するのではない。そうした社会は、世界のどこにでもあるがゆえに、決して看過することはできないのだ。

 

たとえば、今年8月に『朝日新聞』が過去の報道における過ちを認め、それが社長辞任の一因となった、「従軍慰安婦」の名で迂言的に呼ばれている、戦時下に日本軍の性奴隷として使われた女性たちの問題がある。朝日や他のメディアが報道していた、済州島で数百人単位の女性を狩り出して連行した、という証言は、証言者によるねつ造、つまり嘘だった、という事件だ。証言を嘘と気づきながら訂正をしなかった新聞社の態度は、もちろん批判されるべきだ。しかし、私が怖いと思うのは、一般の歴史理解が、自らの意志に反して「慰安婦」にさせられた女性はいなかった、という方向に流されてしまうことだ。さらには、植民地や占領地において、日本の政府や軍は何も悪いことをしなかった、という言説まで一人歩きしているように思う。このことは、「慰安婦制度」だけでなく、南京虐殺や731部隊をはじめ、侵略戦争の過程でおこなわれた、日本によるあらゆる戦争犯罪の否定につながる。

 

同じく気がかりなのは、「特攻」を賛美するかのような姿勢が流行している点だ。国を守るために命を捧げる、という若者の純粋な気持ちは共感を呼ぶ。しかし、そうした気持ちが作られていくプロセスを分析し、この国に命を奪われた何百万、何千万という「他者」を想起することなく、愛国心の純粋性を前景化することは、やはり、記憶の選択的操作である。

 

地方自治体などが運営する「平和博物館」を見ると、空襲など地元住民の被害が、展示の中心に据えられていることも多い。東京・九段に国が建設した「昭和館」では、展示は耐乏生活や勤労動員など、戦時下における「国民の労苦」に限定されている。「日本国民」以外に降りかかった不幸は、自分たちとは無関係だと言わんばかりである。

 

紹介したポーランド映画の村人たちも、また、現在の日本に暮らす私たちも、戦争の直接の加害者ではない。しかし、加害を公共の記憶から消し去ることによって、私たちは再び加害に加わっていることを、考えるべきであろう。

 

 


(注1)同じくポーランド人によるユダヤ人虐殺を描いた、Ida『イーダ』(2013)の日本公開パンフレットから、久米宏一、「1962年前後のポーランド事情――『イーダ』の歴史的背景」より。

(注2)『子どもの目に映った戦争 (wojina w oczach dziecka)』(グリーンピース出版会、1985)という、ポーランド解放直後に子どもたちが描いた絵を集めた画集がある。福島県白河市にある、アウシュヴィッチ平和博物館で、修復された原画の一部を見ることができる。虐殺や強制労働など、ナチの蛮行が子どもに残した精神的外傷の深さを今日に伝えている。カティンの森事件など、スターリン指揮下のソヴィエトによる犯罪も含め、第2次大戦でポーランド人の受けた被害は甚大であった。しかし、クロード・ランツマンの映画『ショアー』(1985)など、ホロコーストを傍観したポーランド人を問題視する作品もある。

 

 

 

20.12.14


20.12.2014
 

Poklosie


 
Recently, I had a chance to watch a Polish film called Poklosie (Aftermath in English, dir. Władysław Pasikowski, 2012. The film is a fiction based on a massacre of Jews in Jedwabne in 1941, a town in northeastern Poland. More than three million Jews lived in Poland before the Second World War. Most of them perished in the Holocaust. Non-Jewish Poles also suffered heavy losses under Hitler’s occupation. The Polish deaths amounted to two to three million (1).

 
In Jedwabne, it was the Poles who slaughtered the Jews. The massacre had long been attributed to the Nazis. Many Poles were shocked, even outraged when Polish-American historian Jan Gross published its account (Neighbours, Penguin Books, 2002 ). An official investigation led the Polish President to offer an apology. The Jews were slaughtered with clubs and machetes. Those who escaped were burned to death inside a barn which was torched from the outside.

 
Set in a fictional location, the film focuses on the tension between the protagonists, two brothers who are determined to find the truth of the matter, and the villagers who would rather assign the whole incident to oblivion. In the process, the protagonists learn that the farmland they work on today were expropriated from the murdered Jews, and that their own father was one of the ringleaders of the massacre.

 
It does not seem right to compare Poland, victimized by the Nazi Germany, with Japan, which victimized the rest of Asia. But the subject of the film, the selective erasure of the past in the construction of a nationalist narrative, has particular resonance in Japan today. Intentional forgetting of Orwellian type may be commonplace world over. It must not be tolerated, however, precisely because there are so many instances of it.

 
Benign efforts to remember the past, too, sometimes produce adverse effects. In August this year, Japan’s largest daily, the Asahi Shimbun, admitted that the paper knowingly published articles about the Japanese military sex slaves euphemistically called “comfort women”, based on a false testimony. The report that the army rounded up girls on Cheju Island in Korea turned out to be a lie told by a megalomaniac.

 
There is no way that the Asahi Shimbun can evade moral responsibilities. But the accusations aimed at the paper seem somehow gotten out of hand. The worrying trend is that people here want to believe that the Japanese army committed no wrongdoings, that there were no women who were forced into sex slavery. It begins to sound like that the Japanese army was righteous, that there were no massacres anywhere, not even in Nanjing, and there were no medical experimentations carried out on the living bodies of the Chinese POWs. This is to deny Japan’s criminality in toto.

 
Another worrisome trend is the glorification of the suicide mission. It is easy to sympathize with young innocent men who sacrificed their lives to defend the nation. Such glorification, however, does not call into question the process in which innocence had been forged by the state ideological apparatus. Forgotten are tens of millions of “others” whose lives were deprived of.

 
Many of the so-called “peace museums” founded and run by local prefectures and municipalities in Japan foreground victimization of civilians, such as those who died in indiscriminate carpet bombing of the Americans. Showa-kan museum, built by the state government in the capital, Tokyo, purports to display only the “hardships” endured by the Japanese nationals, such as food shortage and conscripted labour in arms factories. Such displays are misleading in the construction of an ethnocentric history. Obliterated are the suffering and the loss of the others, as if to tell that their suffering is irrelevant to public museums.

 
The Japanese living today, are not, like the protagonists of the film Poklosie, were not, perpetrators. They did not commit criminal acts at first hand. It must, however, be noted and remembered, that the erasure of criminal acts from social memory, also constitutes a criminal act.

 

(Note) Auschwitz Peace Museum in Fukushima, Japan, not too far from the nuclear power plant severely damaged by the tsunami in 2011, displays watercolours painted by Polish children right after the Second World War (wojina w oczach dziecka). They convey to the visitors a sense of deep psychological wounds that Nazi atrocities inflicted on them. Despite the enormity of their suffering, under Hitler’s and Stalin’s regime, Poles are sometimes portrayed as cynical bystanders, as in Claude Lanzmann’s film Shore (1985).

 

 

10.2.14

収容

あなたは他の市民と同じように仕事をしている。悪事に手を染めたこともなく、納税者としての義務もきちんと果たしている。ところがある日、あなたは街で警官に呼び止められ、捕まってしまう。あなたは言葉も習慣も異なる10人ほどと、狭い部屋で共同生活を送ることになる。食事は配給されるが、外に出ることは許されない。こんな不条理な話が現実に起きている。それが「収容」である。収容はいつ終わるのかも分からない。「あなた」とは日本の有効な在留資格(ヴィザ)を持たないか、あるいは、その有効期限が切れてしまった外国籍市民である。

「収容」という言葉から何が連想されるだろうか。ユダヤ人や、ロマ、同性愛者などを絶滅収容所に移送したナチスの「最終解決」か。あるいは同じ頃、合衆国西海岸で「敵性外国人」のラベルを貼られた日系人の収容だろうか。全ての人間性を否定され、多くが生還することのなかった前者と後者の間には明らかな違いがある。しかし、「その人が何をしたか」ではなく、「その人が誰であるか」が争点となっていることが、この二例と、現在、世界各地でイシューになっている移民や非正規滞在者の取扱いを繋いでいる。移動、居住、労働の自由を国内で、あるいはEUのような域内では保障するが、国境の向こうから来た外国人には保障しないという政策は、全ての人間が同じ権利を有するという「人権」の理念に反しないか。

 さらに日本では、ヴィザを持たない難民申請者が、仮滞在などの救済制度が適用されないまま、収容されてしまうことがある。そもそも日本では、難民の認定率が極めて低い。国や年度、また比較の方法によっても幅がでるが、他の先進国では20%から50%ぐらいの認定率が、日本では1%にも満たない。日本も加盟している国連の難民条約では、難民を「迫害を受けるかあるいは迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた」人と定義している。迫害を恐れて難民申請する人が、日本のヴィザを持っていないことは十分に考え得る。

 私は、面会支援をおこなっている人権団体の活動に参加して、ゼミの学生と共に、法務省入国管理局の収容施設を訪れる機会を得た。そこで出会ったのは、日本人の配偶者がいても偽装結婚を疑われてヴィザをもらえないフィリピン人から、民族の弾圧が出国の主要動機となったクルド人までさまざまであったが、日本で暮らすこと=犯罪として、その人たちに社会生活を認めず、家族からも切り離して「収容」することには強い疑問を持った。入国制限を緩めれば移民が急増して社会が混乱に陥る、という主張も理解できる。しかし、自由を奪って閉じ込めることが、人の精神をどれほど傷つけるかを想像して欲しい。入国管理の対象である前に、その人たちは人間であるのだから。

 

Incarceration


Incarceration

 

Your daily routine is nothing extraordinary. You go to work, come home, and spend the weekend with your family. You pay your taxes. You are a law-abiding citizen. The way you speak Japanese, however, betrays that you are “foreign”. One day, you are hailed by a police officer at a street corner. You are arrested and confined in a small room with about ten other inmates who speak languages different from yours. You are fed so that you will not starve. But you are not allowed to go out. Kafkaesque? No. It is real. You are in Japan without a proper visa, or your visa has expired.

 

Incarceration, an ominous word. It evokes images. An image of Nazi “final solution” by which millions perished: Jews, Romanies, homosexuals, among others. An image of “Enemy Aliens” who spent the war-time years in desert concentration camps in the American West, may also be conjured up. An image of Guantánamo, perhaps. The circumstances under which people were confined differ. Nazi final solution, some argue, was beyond comparison. Today, the images of incarceration are linked with the issue of border control. Illegal aliens are sought out, detained and deported all over the world. People are incarcerated, not because of what they did, but because of who they are. Freedom of movement and freedom of work are guaranteed within the borders of one state, or within the borders of a group of countries, as in the EU. The same freedom is not accorded to others who have come across the borders.

 

What makes the situation in Japan more annoying is that asylum seekers without a visa are also subject to incarceration when their requests for provisional stay are denied. To begin with, Japan has an extremely poor track record when it comes to refugees. Whereas some 20 to 50 percent are granted refugee status in other “advanced democracies”, the rate here remains less than one percent. A refugee, the UN convention defines, is a person who, “owing to a well-founded fear of being persecuted, is unable to return to the country of his/her nationality”. It is possible that those who fled persecutions arrive in Japan without a proper visa.

 

Last year, I had a chance to visit a detention centre run by the Ministry of Justice with my students. We went with people from a human rights NGO as part of their programme to support detainees. Among the detainees we met was a Philippino who had married a Japanese. His request for a spouse visa had been denied as the authorities suspected that his marriage was not genuine. Another detainee was a Kurd who fled persecutions in Turkey. I wonder if the state is not exercising excessive power by depriving these people of a life of an ordinary citizen and by putting them through a traumatizing experience of incarceration.

 

あなたは他の市民と同じように仕事をしている。悪事に手を染めたこともなく、納税者としての義務もきちんと果たしている。ところがある日、あなたは街で警官に呼び止められ、捕まってしまう。あなたは言葉も習慣も異なる10人ほどと、狭い部屋で共同生活を送ることになる。食事は配給されるが、外に出ることは許されない。こんな不条理な話が現実に起きている。それが「収容」である。収容はいつ終わるのかも分からない。「あなた」とは日本の有効な在留資格(ヴィザ)を持たないか、あるいは、その有効期限が切れてしまった外国籍市民である。

「収容」という言葉から何が連想されるだろうか。ユダヤ人や、ロマ、同性愛者などを絶滅収容所に移送したナチスの「最終解決」か。あるいは同じ頃、合衆国西海岸で「敵性外国人」のラベルを貼られた日系人の収容だろうか。全ての人間性を否定され、多くが生還することのなかった前者と後者の間には明らかな違いがある。しかし、「その人が何をしたか」ではなく、「その人が誰であるか」が争点となっていることが、この二例と、現在、世界各地でイシューになっている移民や非正規滞在者の取扱いを繋いでいる。移動、居住、労働の自由を国内で、あるいはEUのような域内では保障するが、国境の向こうから来た外国人には保障しないという政策は、全ての人間が同じ権利を有するという「人権」の理念に反しないか。

 さらに日本では、ヴィザを持たない難民申請者が、仮滞在などの救済制度が適用されないまま、収容されてしまうことがある。そもそも日本では、難民の認定率が極めて低い。国や年度、また比較の方法によっても幅がでるが、他の先進国では20%から50%ぐらいの認定率が、日本では1%にも満たない。日本も加盟している国連の難民条約では、難民を「迫害を受けるかあるいは迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた」人と定義している。迫害を恐れて難民申請する人が、日本のヴィザを持っていないことは十分に考え得る。

 私は、面会支援をおこなっている人権団体の活動に参加して、ゼミの学生と共に、法務省入国管理局の収容施設を訪れる機会を得た。そこで出会ったのは、日本人の配偶者がいても偽装結婚を疑われてヴィザをもらえないフィリピン人から、民族の弾圧が出国の主要動機となったクルド人までさまざまであったが、日本で暮らすこと=犯罪として、その人たちに社会生活を認めず、家族からも切り離して「収容」することには強い疑問を持った。入国制限を緩めれば移民が急増して社会が混乱に陥る、という主張も理解できる。しかし、自由を奪って閉じ込めることが、人の精神をどれほど傷つけるかを想像して欲しい。入国管理の対象である前に、その人たちは人間であるのだから。

 

19.9.13

On Diversity (2)


On Diversity (2)

 

I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.

 

In July, when the course I teach on transnational culture, required subject for the 2nd year students of my department, was coming to its close, I asked the students to write a short response in two consecutive weeks. I was appalled by the extent to which they had taken the myth of the homogeneous Japanese nation for granted.

 

The first response I asked them to write was about the pledge of allegiance to the flag of the United States. Contrary to my expectations, most of the students reacted positively to the pledge performance. Some even suggested such a ceremony should be introduced to Japan.

 

The pledge, written by Francis Bellamy in 1892, was designed to unify the American nation, the citizenry of which was composed of immigrants of different cultural backgrounds who spoke a variety of languages. Eighteen ninety-two was the year the Americans celebrated the 400th anniversary of Columbus’ discovery of the new continent. At the Colombian Exposition held in Chicago the following year the U.S. was lavishly displayed as an emerging power. It was also in Chicago in 1893 when Frederick Jackson Turner spoke about the significance of the frontier as the embodiment of individualism and democracy in the creation of the great nation. The census bureau, however, had announced the dissolution of the frontier three years earlier. Industrial cities on the eastern seaboard were swarmed with labourers originated from the poorer regions of central and southern Europe. It was in 1892 when Ellis Island began its operation. There is no doubt that the pledge functioned as a part of the mechanism that assimilated non-WASP immigrants.

 

(BTW, I recently had a chance to visit Stanford for the first time to attend a conference.
The university was founded in 1891 by Leland Stanford who accumulated his fortune by the trans-continental railroad business. Casual visitors to Stanford’s immaculate campus are not necessarily aware of the facts that the Chinese employed in the railroad construction were “excluded” from the U.S. citizenry after the railroad’s completion in 1882, nor the westward movement propelled by the railroad deprived the land and livelihood of the indigenous peoples.)

 

What I would like to emphasize is that the idea of assimilation (or integration or inclusion, euphemistically used) is no other than exclusion of others who are not a part of what is taken for an undiluted culture. The number of foreign residents in Japan (according to the Ministry of Justice, therefore not including sans papiers) has now exceeded two million. And besides, the Japanese nationals include large sectors of non-Yamato extracts, including those whose roots are in Korea, Ryukyu, or Ainu-moshiri. Yamato is self-referentially used to indicate the mainstream Japanese, whose sense of cultural superiority may be compared to that of the WASPs. Along with those ethnic minorities, there are also people who maintain strong bonds outside Japan, such as those who married internationally, or those who have lived abroad over extensive periods of time. I am one of the Japanese passport holders who feel somewhat uncomfortable being included in a sweeping category of the Japanese nation.

 

I would like pose a few questions to the students who wish to introduce the allegiance performance to Japan. Will non-Yamato people be also required to say the pledge? Will the pledge be addressed to the flag of the rising sun? My opposition to such proposal is clear. The flag of the rising sun has long been used as an ensign, but its history as the national symbol is short. It was invented by the Meiji government in the process of establishing a modern state. Think of those who, especially in the years running up to 1945, were deprived of freedom of thought and speech, were raped, were used as forced labourers, were assaulted, and were murdered under the flag. I prefer a community that cherishes plurality of ideas, languages, ethnicities, sexual orientations, etc., to a mono-cultural nation that forges singularity through performative apparatuses such as “the pledge”E Pluribus Unum.

 

The following week, I asked my students to comment on the statement made by performance studies scholar Richard Schechner; “Cultural purity is a dangerous fiction because it leads to a kind of policing that results in apparent monoculture and actual racism, jingoism, and xenophobia”.

 

Many of the students did not regard culture as fiction and had difficulties accepting the author’s proposition that cultural purity is dangerous. In their response, they seemed to disregard the parts they didn’t like and went on to paraphrase like; Cultural purity is dangerous because it may lead to racism, jingoism, and xenophobia. Placing their comments in a familiar context, some answered that it is important to maintain Japanese tradition but the over-emphasis of purity can be dangerous. I think the students have taken for granted the idea of singular and homogeneous national culture. The prevalent usage of culture with a name of a country attached (such as French culture, Chinese culture and Japanese culture) probably makes it difficult for the students to think otherwise. I regret that I didn’t spend more time during the course explaining concepts such as “imagined communities” and “invented traditions”.

 

Many of the students also disregarded the part about “a kind of policing that results in apparent monoculture”. They don’t seem to care about ubiquitous CCTV cameras that surround their daily lives. They do not think about the policing and the censoring function of the school, the family, the workplace, and of the neighbourhood association (chō-nai-kai), the association of volunteer fire-fighters (shō-bō-dan), and the association of the lay people affiliated with a Shinto shrine (ujiko), although the last three are not as restrictive as they once were. They don’t seem to be concerned about the new state’s management system of foreign nationals introduced in 2012.

 

Such regimes of surveillance have been depicted in the novels of George Orwell and Aldous Huxley and more recently in the film The Truman Show by the director Peter Weir. The last has a greater resemblance to the contemporary society in that the protagonist is unaware of his being watched. There were students who made a connexion between “cultural purity” the Nazi eugenics policy, but their number was small.

 

The point I would like to reiterate is that cultural purity, implying a culture that is not diverse and undiluted, exists nowhere, and that the maintenance of the myth of monoculture (one nation, one language) requires the violence of ostracism. With the increase in encounters with people of different ethnicities who speak different mother tongues, it is now impossible to contain “our culture” within partition walls, both physically and figuratively. Besides, borders, whatever the form they may take, can only be porous and permeable.

 

 

多様性について(続)


多様性について(続)

I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.

 

2年生の必修科目「トランスナショナル文化論」が終わりに近づいた7月上旬、2週連続して授業後に簡単なコメントを書いてもらったのだが、日本単一民族神話の刷り込みの深さに驚き、恐ろしさを感じた。

 

一回目はアメリカ合衆国の「国旗への忠誠の誓い」をどう捉えるか尋ねたのだが、学生諸氏の多くは、これを国民統合のパフォーマンスとして肯定的に評価していて、「日本にもこのような儀式を導入すべき」と提案した学生も少なからずあった。

 

「誓い」は、出自を異にする移民の混合である合衆国市民の思想と言語を統一する「国民創生」の装置として、1892年にフランシス・ベラミーによって「発明」されたものだ。1892年といえば、コロンブスのアメリカ「発見」400周年にあたり、翌1893年にはコロンブスの名を冠した万博がシカゴで開催され、「大国」としての合衆国の位置が強調された。歴史家フレデリック・ジャクソン・ターナーが「アメリカ史におけるフロンティアの意義」を発表したのもシカゴ万博においてである。しかしターナーが独立精神や民主政治の源泉と主張したフロンティアは事実上消滅しており、東部の工業都市には、東欧や南欧からの移住労働者たちがイナゴの群れのように押し寄せていた。移民たちの上陸審査地点としてエリス島がフル稼働を始めた時期でもある。「誓い」がこうした非WASP住民の「同化」に果たした役割は少なくない。

 

(余談だが、先日、学会でスタンフォード大学を訪れる機会を得た。シリコン・バレー中心に位置するこの全米屈指の有名私立大学は、大陸横断鉄道建設事業で財をなしたリーランド・スタンフォードが1891年に創設している。鉄道建設に安価な労働力として利用された中国からの移民が鉄道完成後の1882年に「中国人排斥法」によって断たれたことや、フロンティアの西漸(鉄道建設はその中核にあった)が先住民の土地や生活を奪っていったことを、美しく広大なキャンパスを訪れる者の脳裏を掠めることは稀であろう。)

 

考えたいのは、同化(統合や包摂という言葉でトーン・ダウンされている場合を含め)という発想が、文化の純粋性の外部に存在する他者の排除に他ならない、ということだ。日本に暮らす外国籍住民は(法務省がカウントする正規在留資格を持つ人たちだけでも)既に200万人を超えている。さらに国籍は日本でも、朝鮮、琉球、アイヌモシリなど、(日本版WASPを形成してきた)ヤマト以外の民族的出自を持つ人々は多い。また、国際結婚で結ばれた家族や、海外での在住期間が長い人など、ルーツやさまざまな絆を日本の外側にも持つ人も増加している。また私のように、日本のパスポートを持っていても「日本人」というカテゴリーで一様に括られることに、どこかしら居心地の悪さを感じてしまう人間もいる。

 

「国旗へ忠誠の誓い」の日本版を日本の学校で実施しようと提案した学生諸氏に尋ねたいのだが、「誓い」はヤマト民族以外の、つまり日本版非WASPの人たちにも強制されてしまうのだろうか。「誓い」のパフォーマンス性による「多数の統一(E Pluribus Unum)」ではなく、複数の民族、宗教、言語、思想、性的指向などの差異を尊重し合う、多様性を軸とする共同体を目指すべきだ、というのが私の主張である。

 

合衆国を真似て国旗への誓いを始めるとすれば、誓いの対象は「日の丸」になるのだろうか。日の丸は意匠としては古いかもしれないが、国旗として使われたのは、日本という国家が樹立された後のことであり、明治政府による「発明」である。一方、日の丸の下に思想や発言の自由を奪われ、強姦され、強制労働に駆られ、暴行、強奪、そして殺害された人は数知れない。あの旗への「誓い」を繰り返すことで、純粋で美しい、モノカルチュラルな日本を「発明」しよう、という提案には同意できない。

 

さて、学生諸氏に翌週尋ねたのは、「文化の純粋性」について、パフォーマンス研究者のリチャード・シェクナーが書いている以下の文章についてである。

 

Cultural purity is a dangerous fiction because it leads to a kind of policing that results in apparent monoculture and actual racism, jingoism, and xenophobia.

 

まず、学生諸氏の多くが文化はフィクション(虚構、作り事)である、という点を見落としていた。さらに「文化の純粋性は危険だ」という著者の断定を受け入れることに抵抗を感じている。パターンとして一番多かった解答は、「文化の純粋性は、人種差別、盲目的愛国主義、外国人嫌悪に結びつく可能性があるがゆえに危険である」としたパラフレーズで、自分の意見に合わないところはカットしている。日本の状況に当てはめて、「日本文化の伝統を守ることは大切だが、純粋性を強調しすぎると異文化理解を阻害する」とした解答も多かった。これは一般的な「文化」という単語の用法が、「日本文化」「フランス文化」のように国名と抱き合わされているので、国民文化、民族文化の単一性や同質性を「当たり前」と受け止めてきた結果であろう。「想像の共同体」や「伝統の創造」といった概念について、授業中により多くの時間を割いて説明しておかなかった点が悔やまれる。

 

学生諸氏は、「見かけ上の単一文化を形成する監視の役割」という箇所も飛ばしてしまう。文化純粋性の維持に不可欠な監視・検閲装置としての、学校、職場、家庭、(そして昔ほどは強固ではなくなったといえ、町内会、消防団、氏子などの社会組織)、ユビキタスに存在する監視カメラをはじめ、入国時の指紋登録と在留カードがセットになった外国人管理や、着々と導入の進む国家による個人情報の一元管理制度などは気にかからないのだろうか。

 

こうした監視機構により作りだされるのは、ジョージ・オーウェルの『1984年(1949)』やオルダス・ハクスレーの『素晴らしき新世界』などの近未来小説に描かれた監視社会である。ピーター・ウィア監督の映画『トゥルーマン・ショー』も同じ類の監視社会を描いているが、本人が管理の対象であることに気づいていないところがより現代社会に近い。「文化の純粋性」という表現にナチスの優生思想を見出した学生もいたが、残念ながら少数派であった。

 

私が繰り返したい点は、純粋文化、つまり多様性を伴わない文化など、どこにもありはしないこと、また同一民族、同一言語という単一文化の神話を維持するには、他者の排斥という暴力を発動させなければならないことである。民族や母語を異にする人びとの出会いの場が増え、地球のさまざまな場所を巡りつつ人生行路を歩むことが珍しくなくなっている今、分離壁を建設して全ての国境線を防護したところで、自分たちの文化だけを壁の内側に閉じ込め、外部とのやり取りを遮断することは不可能である。境界とはどのような形のものであれ、相互に浸透性を持つメッシュのようなものだ。

 

「単一文化の神話」は「見かけの同質性がもたらす安心感の神話」と言い換えてもよい。「以心伝心」というが、どれだけ長い年月連れ添ったパートナー同士でも、相手を完全に理解することはできないと思う。たしかに、異質な価値観を受け入れるには努力と忍耐が必要で、時には摩擦や衝突も起きるだろう。しかし、他者との邂逅による傷つきやすさを恐れないことだ。「見かけの同質性」よりも「多様性」を希求することで、創造的で刺激的な、マイノリティを捨象することのない文化が生みだせるのではないか。